70年代の光と影〜法政4連覇〜
Episode 7
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前回のEpisode6では1960年(昭和35年)に行われた慶早六連戦についてお伝えしました。今回はその約10年後の出来事についてご紹介したいと思います。
戦後の野球人気に火をつけることに大きな役割を果たしていた大学野球でしたが、プロ野球の発展に伴い、テレビ中継の数も減少し人気に陰りが見え始めます。そうした状況の中で、再び注目を集めるきっかけ、そして主役となったのは「法政大学」でした。
60年代初頭から優勝争いに度々加わるようになった法大は、69年秋から4連覇(史上3校目)、76年春からは全て完全優勝(全大学から勝ち点を奪うこと)で4連覇を達成するという離れ業を成し遂げます。この完全優勝での4連覇は未だ破られていない記録であり、圧倒的な強さであったことを窺い知れます。
この後者の4連覇、法大野球部で主役となったのは高校時代から「怪物ピッチャー」として注目を集めた、江川卓氏でした。当初慶應への進学を希望していた江川氏でしたが、結果はまさかの不合格。当時、その結果はニュース速報としてテロップで報道されていたほどで、江川氏の進路に関する様々な憶測も飛び交いました。その後進学先として選ばれることとなるのが法政大学であり、夢物語のような4年間が始まることになったのです。
入学後、1年春から主力としてマウンドに立った江川氏。同期に有名選手も多かったことから「花の昭和49年組」として注目され、数々の記録を打ち立てることとなりました。当時の史上最年少でのベストナイン選出、4年間で17完封に成功、投手で打席数が少ないにも関わらず規定打席に到達しリーグ2位の打率を残す...等、個人でも誰もが驚く成績を残し、法大の黄金期を作り上げたのでした。
こうして法大の躍動により再び注目が集まった東京六大学野球でしたが、その期間、塾野球部は優勝から大きく遠ざかることとなります。1971年と72年に3連覇を成し遂げますが、その優勝からなんと13年間(1973~1985)、25シーズンに渡って中位を彷徨い、最下位争いをすることも度々あったようです。
黄金期と呼ばれた法大、暗黒期とされた慶大、対照的な70年代を過ごすこととなった両校ですが、その後慶大の復活により盛り上がりを見せます。その復活の狼煙を上げたシーズンを、次回のコラムで紹介させていただきます。