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Episode 2

『中断』という危機

 この度は弊委員会のHPをご覧いただき、ありがとうございます。

 今や春と秋、2回行われることが当たり前になっている野球の慶早戦。実は1903年の慶早戦開始から数年後、「中断」という危機に直面していたのです。

 

 第1回早慶野球試合以降、年に数回定期戦が行われていました。早大野球部も米遠征などを行い強化に努め、接戦が繰り広げられます。慶早戦は回を重ねるごとに注目を浴び、両校への応援も熱狂的になりますが、この熱狂的な応援が慶早戦の中断を引き起こすこととなるのです。

 

 1906年秋、早稲田大学の戸塚球場で行われた第1戦は2対1で慶應が勝利します。しかし慶應の学生の一部が大隈重信氏の自宅前で騒動を起こし、早大側の不満を生むこととなりました。

 第1戦から6日後、三田綱町球場での第2戦は、当初の想定の倍以上の観客の後押しを受けた早大野球部が3-0で完封勝利。早大の学生たちは仕返しと言わんばかりに福澤諭吉邸前で「万歳」を叫びました。

 本来であれば勝負をつける第3戦が行われる予定でしたが、両軍の観客が決闘の準備をしていたことなどから、慶大関係者はこれ以上混乱が拡大することを防ぐため、この決戦の中止を早大側に提案します。早大もこの提案を受け入れますが、結果的にこの中断が長引くこととなるのです。

 現役の野球部員は慶早戦の再開を希望しますが、大学関係者は頑なに拒否を続けました。一方、業を煮やすOBたちは独自にOB慶早戦(三田・稲門戦)を開始し、現役選手も飛び入りで参加するなど好評を博しますが、現役の慶早戦を待ち望む声も多数存在していました。一方、選手たちは海外遠征や招待試合で研鑽を積んでいたのです。

 

 1914年には慶應、早稲田、明治による三大学リーグが発足し、後に法政や立教も加盟し試合が行われますが、慶早戦だけは行われないという今となっては考えられないような事態が発生していました。しかし、他大学や現役部員の粘り強い説得により、1925年、実に19年ぶりに慶早戦が復活することとなったのです。

 

 部員やOBの説得、そして他大学の尽力があってこそ、慶早戦の伝統は現在まで続いているということに改めて気付かされました。今回のコロナ禍も大学野球の歴史を見ればかなり異例な状況となっています。しかしこの状況に打ち勝ち、乗り越える力はきっとスポーツに、選手に、ファンにもあるはずです。また満員の応援席で観戦できることを楽しみに、声援を送りましょう。

戸塚球場.jpg

〈100年を経て...〉

 かつて慶早戦が行われていた早大戸塚球場。その跡地は早稲田大学総合学術情報センター、中央図書館(写真)となっています。

 1926年に明治神宮野球場が完成するまでは東京六大学野球リーグ戦でも使用されており、人気球場となっていました。また第二次世界大戦中に、出陣学徒壮行早慶戦が行われた場所としても知られています。

 1987年に閉鎖されるまで、夏の甲子園東東京大会の会場として使われ、多くの人々に親しまれました。

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