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最後の慶早戦

Episode 4

 平素より慶早戦支援委員会のWebサイトをご利用いただき、ありがとうございます。

 

 今回は忘れられない歴史、「最後の慶早戦(出陣学徒壮行慶早戦)」についてお伝えします。太平洋戦争中、厳しい情勢下で行われたこの一戦。多くの人々の思いと努力が実ったこの試合をなくして、慶早戦の歴史を語ることはできません。まずはこの一戦の背景から振り返りたいと思います。

 

 日中戦争が1937年に開始されて以降、戦時色が強まる中で野球は弾圧の対象となります。六大学野球の規模も徐々に縮小され、1942年秋にはリーグ戦の中止、リーグの解散が指示されることとなります。各大学野球部は練習もままならず、実家に帰省する者、退学を決断する者が続出します。しかし慶早両校はなんとか練習を続けることができていました。

 しかし1943年、戦局は急速に悪化し、兵力不足が深刻化、国は修業年限の短縮化等を行い、兵力の増強を進めます。そして1943年9月、遂に大学在学生の徴兵を行うとの決定が為されました。対象は文科系学生で徴兵検査を通過した者とされましたが、早大全体で約6000人、野球部員も殆どが対象となるなど、この決定は大学生活での野球にピリオドを打つということを意味していました。

 

 この事態に反応したのは当時の慶大塾長である小泉信三氏でした。「彼らに生きた証を残すチャンスを与えたい」「最後の思い出を」との思いから、部員の出陣前に神宮球場での慶早戦の開催を早大側に提案します。当時の早大野球部監督である飛田氏もこの熱意に押され、早大当局との交渉を決断、両大学野球部員もこの案に歓喜し、練習にも熱が入りました。

 しかしこの交渉は停滞します。敵国アメリカのスポーツである野球をすることは時代に相応しいのか、国のために戦うものが多い中でスポーツに興じて世間はどう見るか、そもそも人を集めてしまっては空襲の危険も伴う、等様々な問題が浮上します。早大総長田中穂積氏は難色を示し続け、刻一刻と出陣が迫る中でも状況は変化しませんでした。飛田監督は選手、そして周囲の熱意に押され、野球部の責任の下で早大戸塚球場にて慶早戦を強行開催することを決断します。『出陣学徒壮行早慶戦』、この一戦をこう名付け、10月16日の午後に開催することを慶應側に伝えました。

 そして迎えた当日、応援席は両校の学生やOB、部員の家族に限定して解放され、天候も晴天となり、部員を送り出す舞台が整いました。満員の応援席、小泉塾長は学生と共に観戦することを望み、新聞紙を座布団代わりに部員の勇姿を見届けたそうです。結果は10対1で早大の快勝となりましたが、試合終了後、慶大側応援席から早大校歌である「都の西北へ」が、早大応援席からは「若き血」が聞かれ、両校は健闘を讃え合い、「次は戦地で」「神宮で再び野球を」と声を掛け合ったそうです。

 

 この一戦から5日後、大雨の中、明治神宮外苑競技場(現国立競技場)にて出陣学徒壮行式典が行われ、多くの部員達が出征しました。戦没者も複数名いたことが判明しています。慶早戦が復活したのはその2年後、1945年の10月となります。

 

 なぜ「最後の」慶早戦と呼ばれているのでしょうか。部員、家族、監督、そして塾長、この試合の実現に向けて動いた人々は、二度と彼らが野球をすることができないだろうとの思いで10月16日を迎えました。ボールやバットも手に入りにくく、敵国のスポーツだと非難をされる時代、野球をすることに何の意味があるのかを考え続けながらも、部員達は慶早戦に向けた練習を続けました。その強い思いと覚悟、そして堪え難かった葛藤が、この慶早戦は自分たちの人生において最後であると印象付けたのではないでしょうか。そして我々はその歴史と努力に敬意を表し、「最後の慶早戦」と呼び続けているように感じます。

 

 最後の慶早戦、いかがでしたでしょうか。書籍化、映画化も為されております。慶早戦が特別な理由、それがここにも隠されていると言えるのではないでしょうか。

 

 次回は戦後の大学野球についてお伝えします。

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