Episode 3
投げ込まれたリンゴ
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連載企画3回目、今回は慶早戦ならではのルールを形作るきっかけとなったある事件についてお伝えします。
慶早戦で慶應側の応援席と言えば、一塁側、三塁側どちらをイメージされますか??
答えは\三塁側/!!外苑前駅から神宮球場に来られると、両日共に左側に向かわれることと思います。その他のリーグ戦では初日と二日目で三塁側、一塁側と入れ替わるにもかかわらず、どうして慶早戦では二日間共にベンチ・応援席は三塁側と決められているのでしょうか。
これには88年前のある驚くべきトラブルが大きく関わっています。1933年10月22日、秋季リーグ戦の慶早戦は第3回戦までもつれ込み、その第3回戦も激しい乱打戦となりました。また序盤から審判の判定を巡って応援団、応援席も大きな騒ぎを起こします。
そして大きなトラブルのきっかけとなったのは8回裏、塾野球部が仕掛けた盗塁の判定を巡り、塾野球部の三塁走塁コーチを勤めていた水原茂選手が猛抗議をし、早大側の不満を大きく買いました。
その後の9回表、水原選手はサードの守備につきますが、先ほどの抗議に対して怒りと興奮を覚えた早大側応援席から、ゴミやリンゴの芯が水原選手に向けて投げ込まれます。これに対し、水原選手はリンゴを三塁側の壁に投げ返したことから応援席は激昂、試合終了後に早大応援団は、塾野球部ベンチと応援席になだれ込み大乱闘となってしまいました。この試合に塾野球部がサヨナラ勝ちしたことも相まったのでしょうか、6000人とも言われる多くの学生が、監督と水原選手に謝罪を要求します。
一方、この混乱の中で慶應側応援団は名誉ある指揮棒を紛失し、このような混乱と暴力行為を招いたのは早大側だとして、睨み合いが続きました。騒動は尾を引き、結果的に早大野球部部長などが引責辞任することを通して、決着がつくこととなりました。一時は新聞にも大々的に取り上げられ、『再び慶早戦中断か』といった見出しが飛び交うなど物々しい雰囲気となりました。
ここまで騒動が大きくなった理由として、当事者である水原選手の注目度が高かったことも挙げられます。水原選手は全国高校野球選手権での優勝投手の経験を持ち、鳴り物入りで塾野球部に入団します。当時の加熱していた応援を考えると、今以上に注目度は高かったと言えるのではないでしょうか。人気を集めていた水原選手、なんと昭和の名女優である田中絹代さんと交際していたと噂されるなど、世間からも大きく注目されていました。その後別のトラブルで野球部を退部することとなりますが、卒業後読売巨人軍に入団。第二次世界大戦に召集を受けるまで主将を務めるなど、大きく貢献します。帰国後、読売巨人軍や中日ドラゴンズの監督を歴任するなど戦後の日本野球の発展に尽くされました。あの星野仙一氏も水原氏の下で才能が開花したという経歴があります。
この事件以来、三塁側ベンチと応援席には塾野球部が陣取ることとなり半世紀以上この伝統が続いています。リンゴがきっかけとなり、このような伝統が形作られることになるとは、投げ込んだ人物も水原選手も想像し得なかったのではないでしょうか。
次回は忘れてはならない記憶である、「最後の」慶早戦についてお伝え致します。